はじめに
久しぶりに教育についての話題です。
先日、文科省が次期学習指導要領で「ギフテッド教育」として別カリキュラムを本格実施していくというニュースが出ました。

多様性が謳われる世の中で、いわゆる「浮きこぼれ」となっていた子供達に焦点が当てられるようになりました。それは喜ばしいことです。
しかし、その一方で、10年前にギフテッド教育を実施した学校は3年でカリキュラムを停止しています。


今回は、ギフテッド教育に必要なのは何なのかについて、現役教員の視点から考えていきたいと思います。
教育関係の記事はこちら・・・
https://mawarimichi-tatsujin.com/category/教育について/
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学校教育の限界
結論を先に言ってしまえば、私は個別の学習計画は、ギフテッドの子に限らずすべての子どもに必要なものと考えています。それはすなわち、ギフテッドだから支援計画が必要なのではない、ということです。
正直な話、現在の義務教育の現場では30人の子供の中に「数学の等差数列が理解できる子」と「10より大きな数の概念が理解できない子」が同じ空間に存在しているような状況です。この状況でどうしてギフテッドへの支援ができるでしょうか。到底無理です。ギフテッドに限らず学びの個別化は必要ですが、現状のリソースでは難しいのが現実なのです。
学校で学ぶのは「勉強」と「社会」
そもそも、学校は勉強を教えるだけの場所なのでしょうか。
今の時代、塾でも勉強はできます。しかし、塾はお金を払って通うところで、全ての人が行くわけではありません。もちろん学習指導も学校の役割ですが、それ以上に多様な背景の子供達が集まり、勉強や体験活動を通して集団で生活する場所が塾とは一線を画しています。
異なる価値観の人たちが集団で過ごす以上、許されることと許されないことがはっきり分かれます。それはある意味では「社会の縮図」とも言えるでしょう。
ギフテッドの子に必要なスキルとは
そう考えると、ギフテッドの子に必要なのは「社会と関わるためのスキル」なのです。
言い換えれば、ギフテッドもそうでない子どもも、結局社会に出たら自分に100%合わせてもらえる環境なんて存在しません。
したがってその前段階として、学校現場は社会性を学ぶ場所として割り切ってもらう必要があると思うのです。
もちろん、ギフテッドの子が学ぶ邪魔をしないことが学校には求められると思います。
社会との関わり方を学ぶ場面では、自分の価値観と世界とがぶつかる場面として、子どもたちの前に現れます。しかし、それは全ての人が経験するものであって、ギフテッドだけがぶつかるものではないと思うのは私だけでしょうか。
変えるなら「現代日本の価値観」を変える必要がある
ではどうしたらいいのか。
答えは単純で、「時間をかけて、日本社会が求める許容範囲を緩める」ことが必要です。複雑なスキルが求められる現代において、一部に秀でた人間は使い所が難しいのが暗黙の了解となっています。
例えば、突出した能力を持つ人をチームで活かす文化を育てるなど、オールマイティを目指すのではなく、適材適所の許容度を広げていくことが、これからの社会に求められていくのではないでしょうか。
おわりに
今回はギフテッド教育について私見を述べてきました。ギフテッドは、秀でたものがあるからこそ、社会から跳ね返される経験が人より多くなる可能性は高いです。その時にどう切り抜けるのか、といういわば「受け身」を取る練習として、学校での集団生活は生きてくるのではないでしょうか。
さいごまでおつきあいいただきありがとうございました。



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